「時間はどこで生まれるのか」(橋元淳一郎著:集英社新書)を読んだ。
はじめて、なるほどと思う時間論だった。
「この宇宙は、ただ存在するだけの相対論的C系列(一覧表)である。ミンコフスキー空間という時空に描かれた一枚の絵といってもよいだろう。
しかし、その絵は対照的ではない。走査(スキャン)する方向によって、エントロピーが増大したり、減少したりする。
生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。
エントロピーが減少する方向では、秩序がひとりでに生じてくるから、そこに秩序を持続させる「意思」が生まれる進化論的圧力は働かない。すなわち、その方向に向かう「意思」「自由意思」、あるいは「意識」といったものが生じる必然性は何もない。
エントロピーが増大する方向では、放っておくと秩序が崩壊していくから、その秩序を維持するためには、なんらかの「秩序維持機構」、あるいは「努力」が必要である。
原初の生命は、結晶や竜巻と同じように、物質的な「秩序維持機構」によって誕生したものと思われる。しかし、秩序維持が上手な生命は、自然選択という進化の圧力によって生き残る可能性が高まるから、そこに「意思」が生まれるであろう。
自動的に秩序を維持するよりも、「意識的」に秩序を維持する方が、はるかに効率的だからである。
「意思」をもった生命は、自分の秩序を壊そうとする外部の圧力を、どうしようもない変更不可能な過去として受け止める。しかし、その「意思」は外圧に逆らって秩序を維持する自由をもっている。すなわち、この自由こそが未來そのものである。
このようにして、主観的時間の流れ(A系列)が創造され、改変できない過去と自由に選択できる未來という時間性もまた生じたのである。」(P.132~P.133)
A系列、B系列、C系列、走査する方向などの言葉は、本を読んでいない人にはわからないかも知れませんが、引用し出すときりがないので説明しません。興味のある方はこの本を買ってあげてください。
ところで、この「意思」とは、「トンネル光子の臨界凝集体」なのだろうか。(笑)
思いがけず、ニーチェの永劫回帰が出てきた。
「ニーチェが永劫回帰の啓示を受けたのは、1881年の夏である。
このひらめきには、オーストリアの物理学者ボルツマンが打ち立てた統計力学の原理が影響していることは、疑う余地がない。
(中略)
永劫回帰という考え方の科学的根拠は、次のようなものである。
いかに多数とはいえ分子の個数が有限である限り、それらの分子が有限の空間の中をニュートン力学にしたがって動いているとすれば、有限の時間内に必ず同じ分子配列が再現される。
それゆえ、今現在の宇宙(それには人間活動も含まれる)の状態は、はるか未來のことであろうが、そっくりそのまま繰り返されるはずである。
よって人間の歴史もまた、未来永劫にわたって、無限に繰り返されるに違いない。ニーチェはそのように考えたのである。
いずれにしても、こうした当時の論争を、ニーチェがいち早く敏感に察知し、自らの思想に永劫回帰という支柱を得たことは、ニーチェが科学からほど遠い人であるだけに、驚くべきことである。
たとえば、現代の哲学者が、標準理論や超ひも理論といった現代物理学の最先端の知見を自らの哲学に取り入れるなどということが考えられようか(もっとも、現代の物理学の理論は、哲学者のみならず、門外漢には理解しようのない、数学的記述に彩られているという事実は認めねばなるまい)。
さて、それでは永劫回帰は本当にあるのかといえば、これは机上の空論である。」
(P.171~P.172)
「もっとも」と断ってはいるが、思いっきり「現代の哲学者」を小馬鹿にしているな。(笑)
しかし、ニーチェの永劫回帰がボルツマンの統計力学からきているとは知らなかった。
知っていたら「ツァラトゥストラ」を読むとき、少しは違ったのだろうか。
はじめまして☆
ブログとても勉強になります。
今日、科学と哲学は切っても切りはなせない関係になっていると思います。
同時に両立させるのがますます困難になっている感もありますが。。。
ニーチェにはなんとも言えない魅力があります。
実は「ツァラトゥストラ」をめぐる小説を書き始めたところなので
よろしかったらお越しください。
ストーリーは
なぜ生きねばならないか分からない少女と、
なぜ死なねばならぬか分からぬ少女が出会い、
「ツァラトゥストラはかく語りき」に
出てくる「死に関して自由。死に際して自由」という心
を求めていく。。。というものです
これからもお邪魔したいと思います。
よろしくお願いします!
投稿情報: フライザイン | 2009年1 月27日 (火) 17:01