「死にたくないが、生きたくもない。」(小浜逸郎(こはま・いつお):幻冬舎新書)
「数年前、六十一、二歳になった赤瀬川原平氏が「老人力」(筑摩書房)というエッセイ集およびその続編をだして評判を博した。ここでいう「老人力」とは、老人がぼけて物忘れがひどくなることを逆説的に表現した言葉である。
しかし、どうやらこれは、老人でなければ出せないパワーというように誤解されたらしい。そりゃ語感だけからすれば、誰でも誤解しますよね。
このエッセイ集は、中古カメラ片手に気ままな路上観察などを行い、その折々に出会ったこと、感じたことなどをとりとめもなく記したどうということのない本である。
ただ、赤瀬川氏は、ぼけていく自然過程をそのまま素直に受け入れることを提唱していた。無理をせずにできることをやればよいというメッセージが、その飄々とした文体とたたずまいのうちに巧まずしてにじみ出ていた。
五十九歳の私も、はや、この構えに体で共感してしまうところがある。」(P.21)
小浜逸郎さんのこの本も、老いについてとりとめもなく書いてある本だが、そのほとんどに共感してしまう。
私より一つ下の団塊世代だが、私より年寄り臭いところがある。まあ、わざと年寄りぶっているのだろうが。
「ぼけるが勝ち」と言って笑う人がいる。しかし、実際はボケに一番最初に気づくのは当の本人であるらしい。恐ろしいことだ。そして、本人は鬱になる。
しかし、若者の鬱病とちがうのは、時が解決してくれることだ。そのうちぼけていることも分からなくなるのだから。
「いい加減にしろ、全共闘オヤジ」というのもある。
二十代のころは「全共闘のあの騒ぎはいったい何だったんだろう」と考えることもあったが、結局、「何でもなかった」と言うしかないだろう。
最近では東大全共闘の山本義隆が「磁力と重力の発見」(みすず書房)という本を出している。当時は物理の大学院生だったが、あんな紛争がなければ立派な研究者になっていたのかもしれない。
まさか、山本義隆が全共闘運動にノスタルジーを感じているとも思えない。だが、いまでも全共闘がなにか意味ある運動だったと思うしかない、それを否定されれば人生の意味が吹き飛んでしまうような、いい歳をしたバカがいるのだろうとは思う。別に同情はしないが。
「趣味に生きても虚しい」という残酷なのもある。
この本ではなく、糸川英夫さんの本だったと思うが、アメリカの優秀な研究者が60歳でさっさと研究生活を引退し、趣味の絵を描くことに集中するために、老人だけが住む村に移り住み、毎日絵を描きにあちこち出かける生活を始めた。
久しぶりで訪ねてみると、描き上げた絵があちこちに散乱し、本人は元気なくぼっーとしていたらしい。
いくら絵を描いても、けなす人はもちろんいないが、褒めてくれるのは自分の奥さんだけ、張り合いがないのでしまいには絵を描くこともなくなり、一日中自宅でテレビを見ているだけの生活になってしまったらしい。
老後を生きるのも難しいものだと感じたものだった。
わたしには絵を描く趣味もないし、音楽も駄目だし、本を読むくらいしかない。目だけは何とか見えるままでいてほしいと願うばかりだ。
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