「座右の名文」(高島俊男著:文春新書)から引用する。
「(寺田)寅彦の文学的出発は、師の夏目漱石とほぼ同時である。
明治三十八年に漱石は雑誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」の連載をはじめて一躍有名になった。その『ホトトギス』の三号ほどあとに、寺田寅彦は「団栗」を書いてデビューする。
『ホトトギス』は高浜虚子がつくった俳句雑誌である。虚子は正岡子規の俳句の門下筆頭で、漱石とも親しい。虚子と寅彦とは子規の弟子同士という縁になる。
漱石はその後つぎつぎに作品を発表したけれども、寅彦ははじめのうちはそんなには書いていない。大正十二年になって、それまでぼつぼつと書いていたものをまとめて岩波書店から『冬彦集』、つづけて『藪柑子集』を出した。
岩波書店は、漱石門下の岩波茂雄がはじめた書店である。寺田寅彦は筆名を「吉村冬彦」と称していた。別号「藪柑子」。だから『冬彦集』『藪柑子集』だ。
この二冊の評判がたいへんよく、これがきっかけとなって随筆をたくさん書くようになった。だから、書きはじめたのは明治三十八年と早いのに、実際に多く書いたのは大正の末年から昭和にかけてである。
一番多く書いたのは、昭和九年、十年。死の直前の二年間だ。
寺田寅彦には書くことがいくらでもあった。だからもし寺田寅彦が元気でもうすこし長生きしていたら、もっともっと数多くのすぐれた、おもしろい随筆をぼくらは読むことができたはずであった。」(P.190)
「(昭和十年)十二月三十一日、五十八歳で、寅彦は死んだ。」
「白髪は智恵の印ではない」と山本夏彦さんが書いていたが、寺田寅彦がわたしより短い生であったとは気がつかなかった。夏目漱石は寅彦より十年近く短い。
なんだかむだに長生きしている気がしてきた。
寺田寅彦は物理学者だ。
夏目漱石の「吾輩は猫である」に出てくる、首つりの力学を開陳する寒月君のモデルらしい。
実際に漱石は寅彦の研究室に出向いたりしていたという。漱石はけっこう理系なのだ。
寅彦の随筆で、ふっと気が変わったりするのは、宇宙から飛来したニュートリノが、頭にあるどこかの細胞の電子と衝突するからではないか、というような説を読んだ記憶がある。(間違って覚えているかもしれない)
雪の結晶で有名な、中谷宇吉郎という物理学者は寺田寅彦の弟子にあたる。中谷宇吉郎も多くの、おもしろい随筆を書いている。
「中谷宇吉郎随筆選集」は朝日新聞社から出た。仕方ないが私の蔵書に入っている。(笑)
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