山本義隆といっても若い人は誰も知らないだろうが、団塊世代の人で、学生運動など少しでもやったことがあるなら、きっと思い出すだろう。
あの東大全共闘委員長の山本義隆である。
山本義隆で検索をかけてみたら、面白いブログ(?)が見つかった。
高校の物理の先生らしいが、誰なのかは分からない。
少し長いが、勝手に引用する。じっくり楽しんで欲しい。
「2003年12月18日(木)の朝日新聞(朝刊)に山本義隆氏の『磁力と重力の発見』みすず書房が第30回大佛次郎賞を受賞したことが報道されていた。
たまたま、わたしはこの本が出版されてすぐに購入して(全3巻計\8600痛かった!)一通りは読んでいた。縦書き本は読むのが速い(笑)。
それと、上の大学生の投書にある『物理入門』駿台文庫\1068も仕事柄何度も目を通しているので、この投書とそれにつづく天声人語(これは、1/24に出た文部科学省の高3年学力テストの結果を受けて書いたのだろう)の両方を読むことになり、かなり気になったので、高校現場で物理を教えている立場の者として率直な印象を書いておこうとおもった次第。」
「縦書き本は読むのが速い(笑)。」というのは、選考委員の誰かが、本の内容が理解できないものだから、これに類することを選評で書いたらしい(笑)。
あの元東大全共闘の山本義隆が書いた本だから、賞をやろうというだけだろう。選考委員たちは同志と思いたかったのかもしれない。
実は私も持っているのだ、『磁力と重力の発見』を。まだ読んではいないが。
しかも、「物理入門」(駿台文庫)も持っていた。買うときに、もしかしたら、あの山本義隆かもしれないと思った記憶はある。
「天声人語は名文みたいことがもてはやされているみたいで、受験生の娘もマーカーを引きながら読んでいる。わたしは、関心はない。
大体読んでも「名文」なのか「迷文」なのか、わたしには判定もできない。
ただ、今朝の上に載ったものは、内容がわたしの仕事にも関わるので、一応コメントはできる。
結果、駄文である。」
(天声人語の第2パラグラフ)
『ある本とは予備校講師の山本義隆さんの『物理入門』だった。投書した大学生はぼろぼろになるほどに読み込んだそうだ。とくに電磁気学の章に感動したという。
こんど大佛次郎賞に決まった山本さんの『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房)は『入門』の背景にある思想を発展、深化させた書なのだろう。』
「第2パラグラフを見てもらうと、『磁力と重力の発見』が『物理入門』の背景にある思想を発展・深化させたものであろうなどと予想で書いているのは、どちらの本も一通りでも目を通していないことをはっきりと教えてくれている。
文系の人間に多い、予想でものを書いている証左である。これは、パラッと目を通すだけで、まったく違う目的で書いてあることはすぐにわかる。」
(天声人語の第3パラグラフ)
『文部科学省が全国の高校3年生を対象に実施した学力テストでは、理科と数学が苦手な生徒が際だって多かった。理科では、たとえば元素や重力という基本的な概念を理解していない生徒が目立つ。』
「第3パラグラフ、こんなことは記事に書いてあるのだから、もっともらしく述べても意味はない。書いている本人に聞くが、「あなたは元素や重力などの基本的な概念をきちんと理解しているのか?」。
山本氏がなぜ「磁力や重力」にこだわったのか、そう、「基本概念ほどむずかしいものはない」からなのだ。わかっているなら、だれも書かないし、調べる必要もない。
日本の科学にとって「なぜ近代科学が西欧にだけ生まれたのか?」という問いは、あの湯川秀樹博士も深い思索をしているように、難問である。これに、取り組んだ研究結果がこの著書なのだ。
ただ、物理の世界では常識であるが、山本氏は日本の物理学界では、どちらかというと異端視されており(全共闘時代の行動が尾を引いているのか)、専門の物理の世界ではほとんど問題にされていない。
著書がどんなに有名な賞を受賞しようが、物理という学問の世界では、世界的に通用する論文を書けるかがほとんどすべてなのである。
この選考にあたった5名の委員うち理系は養老猛司氏1人。しかも、彼は医学部でおそらくこの山本氏の著作を論評できるほど内容を吟味できるとは思えない。他のメンバーはその大部な著作(総ページ数947ページ)に圧倒されたようすが伺える。
それも、あとがきのすぐ前にある第22章「エピローグ」などは、数式もきちんと使われているため、選考委員の能力の範囲をはるかに越えてしまっていると想像できる。
井上ひさし氏の愉快に読めたなどの論評は強がりと言われても返す言葉はないだろう。
この本は、読み物風に書いてはあるが、物理や科学一般の基礎知識や科学史にかなりの程度通じていなければ、本当には読めない。日本語で書いてあるから読めるとは限らないのだ。
科学史の専門家たちにぜひ論評をお願いしたいところである。」
(第5パラグラフ)
『現代の私たちは、先人たちが考え抜いた末の成果だけをつまみ食いすることが多い。高校で学ぶ公式や原理原則がその典型だ。それだけを頭に詰め込む作業は無味乾燥に陥りやすいだろう。』
(第6パラグラフ)
『「ゆとり」と「学力低下」との背反がよく語られる。たとえば、公式の背景にあった人間の苦闘を教える。そんなゆとりが教育現場にあれば、学力向上にもつながるのではないか。』
「最後になるが、天声人語氏の第5・6パラグラフについては、教育現場に対するいつもの言説で、「またはじまったか」とげっそり。
物理だけでなく科学一般を生徒に教えるときに、それらの発見なり発明なりをした人物の人間模様を交えながら勉強すれば、本当の学力に結びつくだろうという憶測はウソである。
教えてみればわかるが、ほとんどの日本の生徒にとって外国人の名前だけが出てくる歴史を聞いて何の面白みがあろう。むしろ、「日本人は出てこないよね」と言われてしまう。
だからこそ、山本氏の疑問になる。「なぜ、近代科学(学校でやるのはこれ)は西欧でしか生まれなかったのか?」なのである。
数学の公式や物理などの法則などは、天声人語氏がいうように頭に詰め込む作業ができるとおもっているのが文系の人たちの誤解なのである。
こういうのは、何度も実際にそれを使って(鉛筆と紙をしっかりもって)ウンウンうなりながら問題を解くことではじめて自分のものになってゆくのであって、年代や名前や単語を覚えるようには頭に詰め込むなどできないことなど、理系の人ならだれでも知っていることだ。
どんな勉強でも学問でも、まだ初心者のうちは、無味乾燥に見えることを何度も繰り返すことが多いのは当然である。それを、乗り越えたところに、はじめて「学」の「問=門」が立っているのではないか。
ちょっと新聞に載った記事をひねって、いかにも教養人らしいポーズをとって、自分ではできもしないことを訳知り顔に書いている、それが「天声人語」なのだ。
他社のものも似たり寄ったりである。新聞など関心もないからどうでもよかったのだが、つい、ムキになってしまったのは、まことにはずかしい。
2004/01/25 (日) 15:07:39」
「他社のものも似たり寄ったりである。」というが、そうでもないぞ。ここまでひどくはない。
こんな先生に教わっている生徒たちは羨ましいな。
ところで、「天声人語」からの孫引き部分はアカくしておいた。(笑)
発行元が元だけに、アカですね。
投稿情報: | 2008年5 月14日 (水) 21:20
社長のBlog更新待ってました!
引用部分をアカくしたのはさすがですw
投稿情報: | 2008年5 月26日 (月) 12:45