「すべからく」の誤用にコメントをいただいたのだが、コメントとして返すのには量が多いので、本文にしました。ずいぶん以前の話で申し訳ない。
まず、コメントを引用します。
「あんま関係ないすけど、「縦書き本は~」ってのはやっぱ、文学==縦書き⇔格調高いって意識なんですかね。
いや、そんな意見を(正確に言うとそれをからかった表現の意見を)目にしたことがあるので。
# まあ、私も"日本のハードカバーの小説"で横書き体裁のものを始めて見た時にはちと面食らいましたが。
# (篠原一の「誰がこまどり殺したの」だった。読んでったら違和感はありませんでしたけど。)
で、ドン・ノーマンの「誰のためのデザイン」が縦書きで非常に読みづらく[*1]、インターフェイスについて論じている本なのにこれはないだろう!と非常に腹が立った覚えがあり、なんかつまらない意地だなあと。
*1: 原文→横書き(ていうか英語)・図版→当然横(左から右)に読み進むことを意識したレイアウト
タイトルの通り、(特に)読む人を意識してのデザインがなされている。
これの日本語版が、縦書き・図版はそのまま(ページ跨ぎあり)。
文学==縦書き⇔格調高い⇒馬鹿?」
「縦書き本は読むのが速い(笑)。」と理科の先生が書いたのは、ある選考委員が本の内容が理解できないものだから、他に書くことがなくて、「縦書き本は読むのが速い」と書いたのを嗤っただけでしょう。(笑)
また、山本義隆の本は数式がほとんど出てこないので、縦書きでも何とかなったのでしょう。普通、数学の本などは横書きです。
縦書きに関しては、ノートに控えておいた文章があるので紹介します。
平成15年11月05日附産經新聞「四たび國語斷想(6)」からの引用です。
(相変わらず古い。やっと見つけた。)
「人民日報が横書きなのはもう前から知っていたが、今や中国語も朝鮮語も横書きが普通のことになりつつあるのだそうだ。
となると、横書き文化に抗して辛うじて自己主張しているのは日本だけということになる。
縦書き文化の最後の砦というわけだ。その日本が、かの国々同様にもし横書き文化に取り込まれたら、それこそ縦書き文化は廃れ、世界は多様さを失ってしまうことになる。」
人民日報が横書きになっているとは知らなかつた。右からなのか左からなのかは書いてない。
むかし臺灣に行ったとき、横長の看板では右書きと左書きとが混在していた。
新聞はもちろん縦書きだった。
「縦書き文化は横書き文化とはそもそも発想からして異なっている。
横書きは書き上げた所産が、常にモノ化して眼前に消えずに存在する。
国語文のように右から左へ書き継いでゆく縦書きは、書き上げた所産が筆記具を持つ手のヘリに隠れてしまうので、思考を継続するためには常にコトとして脳内に活性化したまま記憶装置を作動させておかなくてはならない。
これは脳内でより深く、より複雑な観念行為を要求する書式であって、それこそが言葉をモノのごとくに扱わないわが日本人の思考様式なのである。
その思考様式が日本文化を形づくってきたのだ。だから、おおげさに言えば、国語文を横書きにするということは、日本人の思考様式を捨ててしまうことにほかならない。日本人が日本人でなくなってしまうことなのである。
そういう意味で一般記事に算用数字を大幅に取り入れるということは、国語文の横書き化の前兆であり、国語を衰弱死に至らしめる病の前駆症状と言わなくてはならない。
国語文を横書きにすると、「思考が浅くなり、歴史・文化の共同性を失ふ」という警告は、実は既に京都精華大学教授の石川九楊氏が行っているとのことである。
京都産業大学の若井勲夫教授が自らの授業で石川氏に倣って学生を相手に“縦書き・横書き”の実験をしたところ、「石川氏と全く同じ結果が出た」として、「横書きの横行が根本的に日本人の生き方や考え方・感じ方、つまり文化・伝統を乱し、弱め、破棄させることに気付き、縦書きに回帰しなければ将来、大変な事態にならう」と「日本の教育」(日本教師会発行)紙上で警告している。
お二人の炯眼によって見抜かれた国語文横書き化がもたらす深刻な問題は、日本人なら一度立ち止まって真剣に考えてみなくてはなるまい。
(校閲部長 塩原経央)」
これを横書きで引用しているところなぞ文化の弱體化ということなのだ。(笑)
日本の伝統を守るためかどうかは知らないが、筒井康隆はブログ(日記)をわざわざ縦書きで書いている。
やっぱり読みやすい。
「文学==縦書き⇔格調高いって意識」だけではないのです。
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