「文章読本さん江」(斎藤美奈子著:筑摩書房刊)を引用し、今回は本多勝一をやり玉に挙げる。
すっかり、「本が好き、悪口言うのはもっと好き」にはまってしまった。
「素人文章の密集地帯である投書欄は、「無神経な文章」の格好の採集地ではあろう。あろうけれども
『只野小葉さん。当年55歳になる家の前のおばさんである』
と書いたくらいで<ヘドの出そうな文章>とまで罵られるいわれがあるだろうか?
<ヘドの出そうな文章>というなら、本多(勝一)が名文と持ち上げる
『枯れ葉のにおう山の遍路路を歩いてみたい、潮風に流れるはぐれトンビを追って海辺の道を歩いてみたい、そんな思いにかられた時から現代のお遍路は始まるのだろう』(辰野和男「新風土記」(朝日新聞))
のほうが、よっぽど<ヘドの出そうな文章>かもしれない。
<ヘド>が出そうかどうかは、たぶんに個人の好みと感受性による。」(P.88)
本多勝一が「日本語の作文技術」などという本を書いているとは知らなかつた。「貧困なる精神」の持ち主が恥かしげもなく書いたのだ。
この先にもつと本質的な批判がある。本多勝一の本性をするどく突いた文章である。
「結論的にいおう。主張において「民主的」な本多読本は、引用の面から見るときわめて反民主的、権威主義的なのである。
本多読本が引用する文章を扱いの面からよく見ると、細かいヒエラルキーが設けられていることがわかる。
上から順に、
文学作品
新聞記事(署名原稿)
新聞記事(無署名原稿)
素人作文(投稿)
である。
これは世間が広く認知する「文章のピラミッド」ともいえそうだ。
じっさい本多読本は、上には卑屈、下には横柄である。同じ悪文の事例でも、書いたのが大江健三郎だと『この文章について軽々に良い悪いを論ずる自信は私にはない』が『「わかりにくい文章」であることには違いない』と、もってまわった丁重なクレームになるのだし、同じ新聞記事でも、先輩格の記者による署名記事はもっぱら「名文」扱いとなる。」(P.88~P.89)
「上には卑屈、下には横柄」で、更に仲間内では傷を舐めあうというところか。
「文章読本さん江」は、清水義範の「清水義範の作文教室」に紹介されていたので読んだ。子供の頃から作文は苦手なので、ついついこのような書名に惹かれてしまう。
作文を書けといわれても、「朝起きて、顔を洗って、学校に行って、バスに乗って遠足に行きました。楽しかったです」。
これ以上何を書けというのかと、小学校のころいつも思っていた。
これじゃ<ヘド>もでないだろうな。(笑)
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