「頭はよくならない」(小浜逸郎著:洋泉社新書)から引用する。
小浜逸郎氏は、バカな知識人の一人として大江健三郎を挙げている。私の大嫌いな大江健三郎をこてんぱんにやっつけているので楽しいが、同時に、若者には、あと知恵でなく歴史を見ることの難しさも読み取ってほしい。
「日本の近代化のすべての過程を「病気」と言い括るバカさかげん、粗雑さかげん、人間侮辱の態度にまずあきれ果てます。
歴史が残した禍根の部分だけをあとから抽出して、利口ぶった眼で見れば、そのまずさだけが際だって見えるのは当然です。
しかし、だれもそのまっただ中を生きているときには、そんなに利口になれるわけがない。みんなそのとき、そのときを最善に生きようと思って、過去と現在という許された枠のなかで決断を繰り返しているのだ。
私たちが歴史をできるだけ幅広く、できるだけ多元的な条件を考慮に入れて反省しようとするのは、人間の生というものが、どの時代、どの社会にいても、未來についての正確な予測が不可能であるにもかかわらず、それがあたかも予測できるかのようにふるまわざるをえない構造になっている事実を、私たち自身が知っているからです。
よく考えたにもかかわらず誤る。だからこそ、私たちは、さらにいろいろな条件を考慮して、現在及び未来の生をよりよくしようとする。
そのための最も重要な参考として歴史があるのです。
大江氏には、この歴史に対する基本的な思想態度がまったく身についていない。
「病む者、病気をする者としての日本人を大きいメタファーで捉えなおす」?
一番の病人は、大江氏自身です。歴史に言及しながら、決して歴史の多元的な条件やそのつどのさまざまな具体的ディテールを繰り込もうとせず、ただ「悪い戦争を起こした悪い日本人」というずさんな図式で何ごとかが言えると思っている。
不治の視野狭窄症であります。
しかも大江氏の視野狭窄は、この「病気」なるものが、日本や日本人にだけ特定されるものであるかのような口吻を生み出している。そして、自分もその哀れな「病気」を共有しているのだといわんばかりに、マゾヒスティックに、また過剰にナショナリスティックに「病気としての日本」を背負い込んでいます。
むしろ事態は逆で、大江氏は自分の病気を誇大妄想的に「日本」に投影させているのです。
歴史をきちんと追いかけようとしない頭の悪さと怠慢を、自虐的な情緒の露出によって覆い隠そうとしているのです。
そんな「知識人の良心」の底の浅さなど、私たちはとっくに検証済みなので、どうかこれ以上垂れ流すことだけはやめてほしいと思います。」
(P.203~P205)
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