「日本文学全集・第一集」(清水義範)を讀んでいたら次のやうな箇所にぶつかった。
「首相がバカだ、政府がバカだ、野党は大バカだ、産業界もバカだ、スポーツ界はバカ以前だ、芸能界は言語道断だ。マスコミがバカだ、大学生がバカだ、女性は問題外だ。
そんなふうに、あらゆる方面を叱りとばしているエッセイが、うんざりするほどある。大人の雑誌に載っているエッセイのかなりのものが、要するにそれである。
なぜ日本のエッセイはみんな、ああも辛口で、毒舌で、悪たれ爺いの言い放題なのであろうか。
そのことについて、ひとつの仮説が思い浮かんだ。
それは、「徒然草」の影響なのではないだろうか、という仮説だ。
日本を代表する、あまりにも有名な、すべての人が多少なりとも触れたことのある、名作のほまれ高いエッセイ集、それが「徒然草」であり、まさにそれが、世を叱る辛口のエッセイなのである。
男のエッセイストは、さあエッセイを書こうという時、みんな無意識に「徒然草」を思い出してしまうのではないだろうか。
そして、ああいうふうに世を叱るってのは、利口そうに見えるんだよな、と思ってしまう。
気にいらないものを大いにけなして気分がすっきりするし、世の中に説教するってことには自分が社会一般の一段上に立っているような優越感があるし、厳しいことを言う人は利口に見えるような気もするし、ということでエッセイを書く人のほとんどが、辛口の切り口で世をなげいてみせるのである。
それはつまり、「徒然草」の遺産なのではないだろうか。そういうところに、日本の文化というものがあるのではないだろうか。」(P.152)
ちなみに、女の場合のお手本は「枕草子」だと書いてある。
「センスがいいのよ、という自慢」ださうだ。なるほど。(笑)
「日本文化の伝統にのっとってそうなのだから、けなすわけにはいかない。」と皮肉も言っている。
まあ、清水義範の冗談なのだが、本当に「徒然草」「枕草子」というのはそんな本なのだろうかと、ちょっと気になった。
なにしろ、わたしは古文の教科書でほんの一部しか読んだことがない。
そこで、例の世田谷中央図書館で「徒然草を解く」(山際圭司著:吉川弘文館刊)を借りてきた。
「芥川龍之介が読んだはずの徒然草、というのは世にひろまって「名高い」古典となった徒然草であるが、それとは章断の順序がかなり違う、いわゆる常縁本徒然草が世に出たのは昭和三十年代である。
室町時代の歌人東常縁(とうのつねより)が筆写したと伝えられて常縁本(じょうえんぼん)と呼ばれることになった写本で、三十四年に下巻が、三十八年には上巻が、いずれも吉田幸一編集発行の古典文庫に収められて公刊されたのである。
なぜ章断順序のひどく違う写本があったのか。大きな謎が生まれた。
もともと徒然草には謎が多い。多くの注釈者の努力にもかかわらず、なお多くの謎が残されていた。そこにまた新しい謎が生まれたのである。
しかも作品の構造に関わり、したがってその性格にもかかわるはずの重要な謎である。しかしこの新しい謎は、兼好が書いた本来の徒然草を解き明かす貴重な鍵でもあったのである。」(P.6)
「兼好が書きあげたのは、常縁本(じょうえんぼん)の祖本(そほん)である、と私は確信する。その章断順序を変えて流布本(るふぼん)の祖本ができたのである。」
清水義範の論は当たっていないというべきだろう。
ところで、この本は、無学者のわたしが読むには難しすぎた。
しかし、徒然草常縁本というのが欲しくなった。病気だ。(笑)
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