もう一度「対話人間の建設」(岡潔、小林秀雄:新潮社刊)から引用する。
「小林:話が違いますが、岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。
岡:私自身の経験はないのですが、ただ一つのことは、開立の九九を、中学二年くらいだった兄が宿題で繰り返し繰り返し唱えていた。私は一緒に寝ていて、眠いまま子守歌のように聞き流していたのです。ところがある日起きたら、九九を全部言えたのです。以来忘れたこともない。これほど記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするといいと思いました。
小林:そうですね。ものをおぼえるある時期には、なんの苦労もないのです。
岡:あの時期は、おぼえざるを得ないらしい。出会うものみなおぼえてしまうらしい。
小林:昔は、その時期をねらって、素読が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上にどういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。
素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効を持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。
『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。」(P.166~P.168)
やっぱり、本物の知識人の言うことは古くならない。
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