「Fuckin’Blue Film」(藤森直子著:ヒヨコ舎刊)を読んでいたら、「さよなら、スベカラク先生」というのがあった。著者はSMクラブの女王様だそうだ。
「スベカラク先生は国語の先生だった。先生はとても面白い喋り方をする。「ふぇ~~」と息が漏れるような不思議な声を出す。
先生は、「お喋りさえしなければ何をしてもいいです」という、およそ教師としてのやる気ゼロの人だった。マンガを読んでても寝ていてもいい。ただし、うるさくしないこと。それが先生の授業。だから、ほとんどの生徒は寝ていた。私も安心して寝た。
たまには起きて授業を聞く。
「ふぇ~、『すべからく』を、ふぇ~、『すべて』の高級表現だと思って誤用している人が、ふぇ~、ほんとに多いんです。ふぇ~、新聞記事に『すべからく』が出てきたら、ふぇ~、気をつけて見てみなさい。そして、ふぇ~、誤用していたら笑ってやりなさい、ふぇ~」
先生はミニ呉智英のような人だった。すべからくは、「~すべし」という意味の使い方が正しいのだそうだ。例えば、「人間はすべからくスケベである(人間なんてみんなスケベなのさ)」という使い方は間違いで、「人間はすべからくスケベであるべし(人間はスケベが一番)」という使い方なら正しい。
中学生だった私は、新聞、雑誌で「すべからく」の誤用を見つけると、わー、間違ってやがる~、と得意気に思ったものだった。
大人になった今でも、つい無意識にやっちゃうんだよなあ、すべからくチェック。見つけると楽しいんだ、これが。」(P.53~P.54)
そういえば、呉智英に、「すべからくの誤用に関するなんとか」という左翼をからかった文章があった。
ノートに書き写したはずだが、探しても見つからないので、ネットに頼ることにした。
「すべからく 呉智英(くれ ともふさ)」でググってみると一杯でてきた。
「はてなダイアリー」というのから引用する。
「漢語の「必須」などの「須」の字の訓読のために「すべし」のク語法から作られた。
「須」の古典中国語としての意味は前置詞で、意味は「need to」、「する必要がある」。
そこから一般化した日本語としては、当然、妥当、必要、義務、の意で使われ、通常は述語もまた義務や命令の意味の言葉(「べし」など)で受ける。
例:「友と交わるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべし」
しかし義務の意を含まない文に応用されて近年、「必然的に」「当然のように」「そうあるべきこととして」という意味用法が派生した。
この点について「すべての」の意で誤用されるとしばしば指摘されるが、この派生義を「すべての」の意味であると捉えるのは正確ではない。
本来の用法が当為の意味を含まない断定文に応用されたとき、「そうするのが当然」の語気が「そうであるのが当然・必然」の意味にずれたと見るべきである。
たとえば、「美しいひとの精神はすべからく美しい」は「すべて美しい」ではなく「必然的に、必ず、決まって美しい」の意である。
ただし上記のニュアンスもなく、完全に「すべての」という意味で使うのはもちろん誤用。
ただ、この誤用の指摘においては、「すべからく=all」として使うことの誤りを単純に指摘するというよりは、カッコつけてわざわざ難しそうな言葉を使おうとしてスベってしまうという浅薄さ、見せかけの教養を気取ることへの批判が含まれるようである。」
たしかに、すべての意味で使っているのも多いが、嗤っていいのか、もしかしたら正しいのか、判断に迷うような使い方もある。
これによれば、「人間はすべからくスケベである」は誤りなのか、ずれた意味として誤りとまでは言えないのか、私には分からない。
一応、「すべからく」は漢字で「須く」と書くことを覚えておけば、とりあえず安心だ。
なにより、使わないのが一番なのだが。
ここからは、呉智英の「バカにつける薬」からの引用である(らしい)。
「この問題についえは、私は自分の著作で何度か述べているが、簡単にまとめて再論しよう。
1.無知は恥ずかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用然り。
2.「須く」は「すべし」のク語法による変化であり、意味は、義務・命令・当為である。非常に分かりやすく言えば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思えば、当たらずといえども遠くはない。
3.だが、誤用がこの十余年、特に目に付く。それは「須く」を「すべて」の高尚な雅語だと思ってのことである。
そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク次の二種類の人である(上野(評論家・上野昂志)よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言うのだ)。
そして、もう一つは、前者ほど多数ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反権威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覚えながら、単に、反反権威・反反秩序・反反文部省を対置することしかできない人たち。
この二種類である。
4.そこには、次の心情が見てとれる。
まず、前者。
権威主義的な雅語・文語を批判しているつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかいこなせない妬みがとぐろを巻いている。
この人たちが権威批判をするのは、自分が権威から疎外されているからにすぎない。
次に、後者。この人たちは、戦後民主主義の中では、本来は権力に関わる立場にいながら、言論界ではしばしば少数派の悲哀を味わ(原文ママ)わされている。
言ってみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似している。
つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの都合のいい大義名分として、反正統を唱えているのである。
5.というようなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。
だから、これについても、単純な無知無学よりねじれている文だけ、卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
6.しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。
それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。
漢字は難解であり権威主義的であり、特権階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの国家権力による強制が行われた。
「須(すべから)く」も、この一環として、国家権力によって抹殺されたのだ。
7.それでも、国家権力によるどんなに理不尽な蛮行があったとしても、結果的に、易しさの実現が成功し、ひいては、あらゆる権威が消滅する社会が到来したのなら、それはそれでかまわない。
だが、現実に到来したのは、漢字制限による言語表現の混乱と、それに乗じて、反権威を大義名分にする権威亡者の跳梁だけであった。
8.ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はっきりと現れている。」 (P.62)
また、別のブログから引用するが、この人は舊漢字・舊假名遣ひで書いてゐる。
「「すべからく」を「すべて」の意味で用ゐるのは間違ひである。高島(俊男)氏は「すべからく」の行く末を嘆いてゐるが、呉智英は「すべからく」を「すべて」の意味で使つてゐる人間を嘲笑つてゐる。
『このあたり、岸田(秀)自らが立脚する「唯幻論」そのものという感じであるがもっとズサンな所は他にもある。
岸田はケンカについて、こう言う。「日本人のけんかというのは、すべからく『怨みを晴らす』という形」。
意味不明の日本語だ。岸田は「すべからく」を「すべて」の高級表現だと思っているのである。
「すべからく」は漢字で書けば「須らく」で、意味は「ぜひ(~をせよ)」であり、つまり「すべからず」の反対語である。
早大文学部卒、和光大数授(「教授」の誤植だろうな、単なる)の岸田センセは、本書の中で日本語の動詞の語尾変化についても論じていらっしやるが、「ク語法」(高校古文で習う)については御存知ないらしい。
否、センセだけを非難してはいけない。管見の範囲では、評論家・上野昂志、同・川本三郎、演劇家・唐十郎、詩人・鈴木志郎康などが「須らく」を「全て」の高級表現と思い込んで使っている。
この四人に共通することは、いわば反権威・反規範主義である。
そういった人たちが文法規範に無知であること自体はかまわないとしても、「全て」と平易に言えばすむものを、高級表現だと思って誤用する心は皇室と縁組したがる成金のようで、卑しい。
その卑しさがファシズムを生んだとするのが、単純化して言えば、心理学者・フロムの説である。
そこまで見すえた時、初めて、個別科学である心理学が、説明原理を支える一柱となりうるのだ。』(以上、呉智英の文章)
保守派・右翼の仲間みたいな事になつてゐる最近の呉智英さんとは違つて、當時の呉氏は自分で自分が左翼の仲間だと思つてゐたやうで、どことなく左翼風の相手を見下した樣な文體を用ゐてゐるのもそのせゐだらう。
その言ひ分は尤もで、今でも通用する。」(引用終わり)
すべからくの誤用からはじめて、「民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであること」や「その卑しさがファシズムを生んだとする」フロムまで分かってしまうのだからすごい。
しかし、「スベカラク先生」をはじめ、呉智英による指摘がこれほど有名になっているのに、未だに間違う物書きがいることの方が驚きだ。
これから分かることは、左翼は呉智英もSM嬢の日記も読まないということです、ふぇ~。
山本義隆の~誤用にかけて、なにやら非常に難しいのですが
(といって、他の記事も読めているわけではありませんが。)
「憶測でモノを考えててはいけません。特に『簡単』なことについては。
底が知れてしまいますよ。」
ということなのでしょうか?(怖いです)
NTT出版
キーボード配列 QWERTYの謎
安岡幸一+安岡素子
的な?
投稿情報: anon. | 2008年7 月25日 (金) 05:40
コメントありがとうございます。
申し訳ない、「QWERTYの謎」的な?というのはその本を読んでいないのでよく分かりません。こんど読んでみます。
英文での文字の出現頻度を元に、頻度の高い文字を離して配列したと読んだ気がしますが、どうなんでしょうか?
キーボード配列といえば、「うわー、なにをするくぁwせdrftgyふじこlp;@:「」 」なんていうのはよく見ますね。日本では「ふじこ配列」と呼んでみたい気がします。(笑)
山本義隆の本に関しては、天声人語氏のようなわけ知り顔をする人間を嗤っていればいいのでは?
考えてみれば、1ページも読んでいない本を取りあげたのは初めてです。
投稿情報: 鈴木信 | 2008年7 月26日 (土) 13:35
> 申し訳ない、「QWERTYの謎」的な?というのはその本を読んでいないのでよく分かりません。こんど読んでみます。
世の中には、こういう薦め方をするイヤらしい奴がいるので注意が必要です。
(訳: こういう遠回しな表現でしかお勧めを表現できないシャイな人がいるのです。)
そして、
> 英文での文字の出現頻度を元に、頻度の高い文字を離して配列したと読んだ気がしますが、どうなんでしょうか?
引用を引用で重ねるわけですが『これは、パラッと目を通すだけで、まったく違う目的で書いてあることはすぐにわかる。』
マネをしてみたかっただけですすみません子供で。(でもピント外れだしー)
ハニリイト
あんま関係ないすけど、「縦書き本は~」ってのはやっぱ、文学==縦書き⇔格調高いって意識なんですかね。
いや、そんな意見を(正確に言うとそれをからかった表現の意見を)目にしたことがあるので。
# まあ、私も"日本のハードカバーの小説"で横書き体裁のものを始めて見た時にはちと面食らいましたが。
# (篠原一の「誰がこまどり殺したの」だった。読んでったら違和感はありませんでしたけど。)
で、ドン・ノーマンの「誰のためのデザイン」が縦書きで非常に読みづらく[*1]、インターフェイスについて
論じている本なのにこれはないだろう!と非常に腹が立った覚えがあり、なんかつまらない意地だなあと。
*1: 原文→横書き(ていうか英語)・図版→当然横(左から右)に読み進むことを意識したレイアウト
タイトルの通り、(特に)読む人を意識してのデザインがなされている。
これの日本語版が、縦書き・図版はそのまま(ページ跨ぎあり)。
文学==縦書き⇔格調高い⇒馬鹿?
投稿情報: anon. | 2008年7 月30日 (水) 00:45