部屋の掃除をしていたら、「対話人間の建設」(岡潔、小林秀雄:新潮社刊)が出てきた。奥付によると、昭和四十年十月二十日発行、定価220円の本で、「1965.10.23」と鉛筆で書いてある。
昭和四十年といえば、私が大学に入って落第した年だ。家にこもってこんな本を読んでいたのか。その時は小林秀雄に惹かれてというよりは、数学者である岡潔(おか きよし)の方に興味があったのだと思う。岡潔の随筆はよく読んだ。
そのときは禅問答みたいで、何を喋っているのかさっぱり分からなかったが、さすがに年をくっただけのことはあって、わかる部分が増えたようだ。
はじめの方に出てくる数学の話は、今なら、連続体仮説やゲーデルの不完全性定理のことを小林秀雄に説明しているのだなとわかる。当時は数学を志していながらそんなことはまったく知らなかった。
ときどき難しい本がベストセラーになったりするが、この本もそのハシリかもしれない。わかりもしない専門的で難しい本がたまに売れることを馬鹿にする評論家がいるが、年をとればそれなりに知識も増えるのだから、そのうち読めばいいのだ。
なにより、見つけたらすぐに買っておかないと、本屋の店頭からはたちまち消えてしまう。売れ残った本は問屋に戻しておかないと、本屋さんはえらい目に遭うのだから、仕方がない。
また、出版社も潤って、またいい本を出してくれればいい。
「岡:われわれの自然科学ですが、人は、素朴な心に自然はほんとうにあると思っていますが、ほんとうに自然があるかどうかはわからない。自然があるということを証明するのは、現在理性の世界といわれている範疇ではできないのです。自然があるということだけでなく、数というものがあるということを、知性の世界だけでは証明できないのです。数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。
数学は知性の世界だけに存在しうるものではない、何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。ところが感情を入れたら、学問の独立はありえませんから、少なくとも数学だけは成立するといえたらと思いますが、それも言えないのです。」(P.38~P.39)
ゲーデルの不完全性定理の意味はよくわからない。人間の知性には限界が存在するということなのかと思うのだが、ここで「感情」が出てくるところが岡潔の面目躍如というところだろう。
「岡:ギリシャには、小我を自分と思っているが、それが間違いであるという思想はないのです。しかし肉体的な健康にはかないません。日本人には真似できないものです。
私は日本人の長所の一つは、時勢に合わない話ですが、「神風」のごとく死ねることだと思います。あれができる民族でなければ、世界に滅亡をとめることはできないとまで思うのです。あれは小我を去ればできる。小我を自分だと思っている限り決してできない。「神風」で死んだ若人たちの全部とは申しませんが、死を恐れない、死を見ること帰するがごとしという死に方で死んだと思います。欧米人にはできない。欧米人は小我を自分だとしか思えない。いつも無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直感がはたらかない。したがって、ほんとうに目が見えるということはない。(中略)
小林:特攻隊のお話もぼくにはよくわかります。特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批評しますね。悪い政治の犠牲者という公式を使って、特攻隊で飛び立つときの青年の心持ちになってみるという想像力は省略するのです。その人の身になってみるというのが、実は批評の極意ですがね。
岡:極意というのは簡単なことですな。
小林:ええ、簡単といえば簡単なのですが。高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」(P.160~P.162)
「岡:(中略)死をみること帰するということは、なつかしいから帰るという意味です。
小林:よくわかります。特攻隊というような異常事件に関しなくても、私たちの、日本人の日常生活のうちに、その思想はちゃんとあるのです。
ぼくの友だちの永井龍男という小説家が、このあいだ『青梅雨』という小説を書いたのです。これは一家心中のことを書いたものです。冒頭に、老夫婦、養女、義姉が一家心中したという新聞報道が出ておりました、それからが彼のイマジネーションなんです。カルチモンを飲んで死ぬその晩の話を書いている。お湯にはいり、浴衣に着かえて、新しい足袋をはいて、親父は一杯つけて、普通の話をしている。最後に養女が、だけどお父さん、今日死ぬということをお婆さんも姉さんも一言も言いませんでしたよ、あたしえらいと思ったわ、といってちょっと泣くのです。その泣いたところが、今夜のこの家でふさわしくないただ一つの情景であったと書いているのです。そして最後にまた新聞記者の、じつに軽薄な会話がちょいと出る。私はこの小説に感心したのですが、これはモウパッサンにもチエホフにも書けないものです。日本人だけが書ける小説なのです。心理描写もなければ、理窟も何も書いていない。しかし日本人にはわかるのです。
岡:うかがっただけでも、感心しました。そういう小説があるのですか。」(P.164~P.165)
ということで、インターネットで早速注文した。書名は「青梅雨 その他」という短篇集だった。その中の「青梅雨」という小説だが、わずか二十一頁しかない。その中に、小林秀雄の説明したことがすべて入っているのか。これから読む。
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