「円周率世界記録更新 2兆5769億8039万桁への道」
「情報処理」(情報処理学会の学会誌)2009年12月号、著者は筑波大学大学院システム情報工学研究科高橋大介氏。
「2009年4月29日午後6時6分に、円周率2兆5769億8037万7600桁の検証計算が完了した。2009年4月10日に完了していた主計算の結果と比較したところ、最後の76桁を除きすべて一致していることが確認された。
計算に使用したのは2008年6月から筑波大学計算科学研究センターで運用が開始されているスーパーコンピュータ「T2K筑波システム」(米国Appro International社製の高性能PCサーバを基本とする、総演算性能95TFlopsの超並列クラスタ型スーパーコンピュータ)で、合計で73時間36分(主計算:29時間5分、検証計算:44時間30分、主計算結果と検証計算結果の比較時間は含まない)を要した。
これまでの世界記録は東京大学情報基盤センターの金田康正教授らと日立製作所のグループが2002年に達成した1兆2411億桁であった。」
東大と日立のグループは主計算に423時間20分かかっているらしいので、2倍の桁数を5分の1以下の時間で出したことになる。
「πの小数点以下の数列について統計性の調査等が完了したことから、2009年8月17日に円周率2兆5769億8037万桁計算について、大学の広報室を通じてプレスリリースを行ったところ、新聞やテレビなどから取材を受けた。さらに、海外を含むいくつかの新聞やニュースサイトにも記事が掲載された。ニュースサイトに寄せられているコメントには称賛するものもあったが批判的なものもあった。」
πを計算するアルゴリズムに関しても記述があるが、そこは飛ばして結果を見てみる。
πの小数点以下2兆5000億桁までの0~9の数字の分布(表-3)
0 249,999,192,826
1 249,999,959,334
2 250,000,751,269
3 249,999,904,969
4 250,000,455,856
5 249,999,721,513
6 249,999,564,178
7 249,999,660,121
8 250,001,040,584
9 249,999,749,350
2兆1641億6466万9332桁目から「8888888888888」という並びもあるそうだ。
この並びは東大の1兆2411億桁まででは見つからなかったわけだ。
「小数点以下37桁までの円周率の値がわかれば、宇宙の円周を水素原子の直径ほどの精度で求めることができるといわれており、円周率の値そのものを詳しく求めても、直接何かに役立つというわけではない。
しかし、表-3を見るかぎり、πの値は小数点以下の数字が等しい確率で出現する数(正規数)であるように見えるが、πが正規数であることは、まだ数学的に証明されていない。」
「数学は科学の女王にして奴隷Ⅱ」(E.T.ベル:ハヤカワ文庫)を読んでいたら、πが出てきた。
「11-6 超越数
代数的でない数を超越数という。別の表現では、超越数は有理数を係数とするどの代数方程式も満足しない。超越数の存在が証明されたのはやっと1844年のことであって、それをなしとげたのはルウーヴィルであった。超越数はその一つ一つを求めるのはむずかしいが、それらは無限に多く存在し代数的数の“個数”よりも多い。このことはG.カントールによって証明されたが、それは数学者を驚かせたものであった。
ごく有名な超越数はπ、すなわち円周率である。そのはじめから7桁までを記せば、
π=3.1415926・・・であるが、1874年たいした必要もないのに707桁までの計算が行われた。」(P.70)
「コメントには批判的なものもあった。」というのには、「たいした必要もないのに」(笑)があるだろう。
707桁に原注がついていて、
「(校正の段階での追補)このことを書いた後に、新型計算機(ENIAC)が約70時間かかってπの値を2035桁まで計算した。このような計算を一人の人が手計算で行えば、一生懸命にやっても標準的寿命全部を費やすことになるだろう。[原注]」(P.328)
70時間での結果を比べれば、少なくともコンピュータの進歩がすごかったことだけは実感できる。2千桁が2兆桁になったわけだ。
桁数の記録については、昨年、長野の会社員がPCで5兆桁を求めたという話があったから、いまでは2兆5,000億桁はかすんでしまった。
しかし、5兆桁まで合っているかどうかの検証をどうやったのかは知らない。
と、だいぶ前に書いたのだが、また同じ人が10兆桁まで出したという話を聞いた。
しかし、10兆桁まで合っているかどうかの検証をどうやったのかはやっぱり分からない。
「10兆桁が正しいことが確認された後、最後の数字は5であることが確定している。」とあるブログには書いてあるのだが。
落語の話はところどころでしてきたが、ボケ防止のため、というよりボケの進行を防ぐために落語を覚えようと思い立った。
寿限無はだいぶ昔に覚えて、今でも言えるが、もう少し長いものに挑戦したいが何がいいだろう。前座が「寿限無」の次に習うのが「金明竹」だというので、金明竹にした。
といっても、例の「ひょうごの、ひょうごの」というところだけだが。
やっと覚えたので、ここで披露する。
「わてナ、中橋の加賀屋佐吉から参じました。
《はじめ丁寧に》先度(せんど)、仲買いの弥市(やいち)が取り次ぎました道具七品のうち、祐乗(ゆうじょう)光乗(こうじょう)宗乗(そうじょう)三作の三所物(みところもん)。ならびに備前長船(びぜんおさふね)の則光(のりみつ)、四分一(しぶいち)ごしらえ横谷宗珉(よこやそうみん)小柄(こづか)付きの脇差ナ、あの柄前(つかまえ)は旦那はんが古たがやと言やはったが、あれ埋れ木(うもれぎ)やそうで、木ぃ~が違(ちご)うておりますさかいにナ、念のため、ちょっとお断り申します。
《だんだんと早口に》次はのんこの茶碗、黄檗山金明竹(おうばくさんきんめいちく)ずんどの花活(はないけ)、古池や蛙とびこむ水の音と申します・・・ありゃ、風羅坊正筆(ふうらぼうしょうひつ)の掛け物、沢庵木庵隠元禅師(たくあん・もくあん・いんげんぜんじ)張りまぜの小屏風(こびょうぶ)、あの屏風はなァもし、わての旦那の檀那寺が兵庫におましてナ、ヘイ、
《ひどく早口で》その兵庫の坊主の好みます屏風じゃによって、表具にやり、兵庫の坊主の屏風になりますとナ、かよう、お言伝え願いまぁ。」
ところで、「古池や・・」とくれば芭蕉とは思うが、芭蕉に風羅坊という号があるとは知らなかった。もしかしたら有名な書家なのだろうか。
「芭蕉 最後の一句」(魚住孝至:筑摩選書)を読んでいたら、「笈の小文(おいのこぶみ)」のはじめにこうあった。
「百骸九竅(ひゃくがいきうけう)の中に物有(あり)。かりに名付て風羅坊(ふうらばう)といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」
以下は「ゆきゆき亭 こやん」という人のブログから引用させてもらう。
「百骸(ひゃくがい)の骸は骸骨の骸でいわば全身骨格を意味する。死ぬとその骨があらわになるという意味で、死骸の骸でもある。九竅(きゅうきゅう)の竅は体にあいた穴のことで、目の穴が二つ、耳の穴が二つ、鼻の穴が二つ、口の穴が一つ、それに小便の穴とケツの穴で九竅となる。物というのは、今では物質を表すが、かつては魂という意味で用いられることも多かった。心敬(しんけい)法師の発句
ほととぎす聞きしはものか富士の峰
の「もの」は「もののけ」とか言うときの「もの」と同様幽霊を意味する。体を失い霊魂だけになったものも「もの」という。
ちなみに「もののけ」はから傘や下駄などの物が化けたから「物の化」だというのは後世の俗説。本来は「もの」だけでも「もののけ」を意味した。「百骸九竅の中に物有」とはつまり、肉体の中に魂があるという意味になる。
さて、その魂の名は、「かりに名付て風羅坊」という。風羅坊は肉体の名ではない。魂の名だ。肉体の名は生まれた時親からもらったり、俗世で名乗るときの名前だ。つまり金作だとか宗房(むねふさ)だとか、芭蕉庵桃青(ばしょうあんとうせい)だとかいう名だ。
ちなみに、松尾芭蕉という呼び方が今では普通となっているが、本来の名前ではない。俳諧師としての芭蕉は正式には芭蕉庵桃青であって、芭蕉が署名するときにはほとんどの場合この名を用いている。芭蕉は先祖を松尾氏に持つものの、武士の身分はとっくに消失していたから、本来正式の名字はない。しかし、通称としては敬意を込めて、先祖の松尾氏の名で呼ばれることもあった。それが後に芭蕉が俳聖として崇拝されるようになって、芭蕉の身分もいつのまにか松尾氏の武士の生まれに引き上げられてしまい、松尾氏芭蕉庵桃青がいつのまにか松尾芭蕉になったと思われる。
ここで登場する風羅坊の名はそれほど頻繁に用いられたわけでもない。この名はむしろこの『笈の小文』で用いられたということ以外には、あまり知られていない。羅というのは本来網を意味するもので、そこから薄い透き通るような布をも表すようになった。羅紗だとか綺羅だとかいうときの羅でもある。風になびく薄絹、それは乞食の着る破れた薄い着物のことなのか。この風羅坊の名は「風来坊」にも通じる。
ちなみに芭蕉というのはバナナのことで、日本の寒冷な気候では実はならず、大きな葉は秋風に破れてぼろぼろになるところから、しばしば「うすものゝかぜに破れやすからん」といわれる。」
「ここで登場する風羅坊の名はそれほど頻繁に用いられたわけでもない。この名はむしろこの『笈の小文』で用いられたということ以外には、あまり知られていない。」ということか。
これで、「風羅坊」は納得がいった。
ネットで調べてみると、この話は奥深い。第一、道具七品とは何を指すのかさえよく分からない。噺家によっては、織部焼きの香合などが入っていたりするらしい。
道具七品については、「落語「金明竹」の舞台を歩く」というサイトがいい。写真付きで詳しい説明がある。
http://ginjo.fc2web.com/113kinmeitiku/kinmeitiku.htm
「三代目三遊亭金馬の噺、「金明竹」(きんめいちく)によると、道具七品とは、
1.刀身は備前長船の則光、祐乗光乗宗乗三作の三所物、横谷宗珉四分一拵え小柄付きの脇差。
2.のんこうの茶碗。
3.黄檗山金明竹の自在。
4.遠州宗甫の銘がある金明竹の寸胴の花活け。
5.風羅坊(芭蕉)正筆の掛物。
6.織部焼きの香合。
7.沢庵木庵隠元禅師はりまぜの小屏風。
以上が、中橋の加賀屋佐吉店に依頼していた、道具七品です。金馬さんの噺の中には、3の自在と6の香合が入っていません。柳家小三治の噺「金明竹」より補填。」
だそうです。
ところで、金明竹は覚えたが、その代わり大事なものが欠落したかもしれない(笑)。
「座右の名文」(高島俊男著:文春新書)から引用する。
「(寺田)寅彦の文学的出発は、師の夏目漱石とほぼ同時である。
明治三十八年に漱石は雑誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」の連載をはじめて一躍有名になった。その『ホトトギス』の三号ほどあとに、寺田寅彦は「団栗」を書いてデビューする。
『ホトトギス』は高浜虚子がつくった俳句雑誌である。虚子は正岡子規の俳句の門下筆頭で、漱石とも親しい。虚子と寅彦とは子規の弟子同士という縁になる。
漱石はその後つぎつぎに作品を発表したけれども、寅彦ははじめのうちはそんなには書いていない。大正十二年になって、それまでぼつぼつと書いていたものをまとめて岩波書店から『冬彦集』、つづけて『藪柑子集』を出した。
岩波書店は、漱石門下の岩波茂雄がはじめた書店である。寺田寅彦は筆名を「吉村冬彦」と称していた。別号「藪柑子」。だから『冬彦集』『藪柑子集』だ。
この二冊の評判がたいへんよく、これがきっかけとなって随筆をたくさん書くようになった。だから、書きはじめたのは明治三十八年と早いのに、実際に多く書いたのは大正の末年から昭和にかけてである。
一番多く書いたのは、昭和九年、十年。死の直前の二年間だ。
寺田寅彦には書くことがいくらでもあった。だからもし寺田寅彦が元気でもうすこし長生きしていたら、もっともっと数多くのすぐれた、おもしろい随筆をぼくらは読むことができたはずであった。」(P.190)
「(昭和十年)十二月三十一日、五十八歳で、寅彦は死んだ。」
「白髪は智恵の印ではない」と山本夏彦さんが書いていたが、寺田寅彦がわたしより短い生であったとは気がつかなかった。夏目漱石は寅彦より十年近く短い。
なんだかむだに長生きしている気がしてきた。
寺田寅彦は物理学者だ。
夏目漱石の「吾輩は猫である」に出てくる、首つりの力学を開陳する寒月君のモデルらしい。
実際に漱石は寅彦の研究室に出向いたりしていたという。漱石はけっこう理系なのだ。
寅彦の随筆で、ふっと気が変わったりするのは、宇宙から飛来したニュートリノが、頭にあるどこかの細胞の電子と衝突するからではないか、というような説を読んだ記憶がある。(間違って覚えているかもしれない)
雪の結晶で有名な、中谷宇吉郎という物理学者は寺田寅彦の弟子にあたる。中谷宇吉郎も多くの、おもしろい随筆を書いている。
「中谷宇吉郎随筆選集」は朝日新聞社から出た。仕方ないが私の蔵書に入っている。(笑)
「図書館 この素晴らしき世界」(藤野幸雄著:勉誠出版刊)を読んでいたら、突然、梶山季之が出てきた。
「第五章 蔵書コレクション」から引用する。
「寄贈資料でヨーロッパの図書館がうるおったのは、寄贈できるまとまったコレクションが存在したからであった。
十八世紀以降のイギリスでは、貴族がその主役であった。家のコレクションは、歴代にわたって受け継がれ、そこにはさまざまな美術品や図書・文書の集積があった。大英博物館などは、これら貴族の蔵書により拡大されていった。
日本では専門家の蔵書は一代かぎりのものが多く、収集した図書の価値を知っているのは当人だけであり、次の世代に引き継がれることはめったにない。
本人が亡くなると、古本屋が価値のあるものを引き取ってゆく。これを「背取り」といい、梶山季之の小説『せどり男爵数奇譚』は、古書にたいする情熱をかけた人々を描ききっていた。
ヨーロッパでは、まとまった蔵書は、競売にかけるのが普通であり、二十世紀前半までは図書館がそれを購入することが多かったのである。」(P.88)
早速、図書館で『せどり男爵数奇譚』(梶山季之著:夏目書房刊)を借りてきた。
梶山季之といっても「と金紳士」くらいしか読んだことがない(笑)。
「古書にたいする情熱をかけた人々を描ききって」いるのかどうかはよくわからないが、面白かった。
解説を出久根達郎が書いている。
「『せどり男爵数奇譚』は、月刊誌「オール讀物」の1974年1月号より6月号まで連載され、その年の7月に単行本化された。版元は桃源社である。本書は発売当時から世評高く、古本屋でも店に並べれば、すぐに売れた。
そして、あれあれというまに、古書価が高くなっていった。稀覯本でもないのに、いまだに古本価値が高い、まことに希有な一冊である。
古書界に材を取ったわが国最初の本格的な小説、という理由もあろう。何より面白い、ということがある。しかし私が思うに最大の理由は、読者のそれぞれが、本書の主人公に自分の分身を見たからに違いない。」(P.323)
桃源社版は高そうなので、夏目書房版をamazonで購入した。すでに読み終わっているのだが。
私は、こんな感じで、興味にまかせて次から次へと手を出しているだけで、稀覯本や初版本を集めようという趣味はない。その代わり、本のために人殺しをする心配はなさそうだ。
「死にたくないが、生きたくもない。」(小浜逸郎(こはま・いつお):幻冬舎新書)
「数年前、六十一、二歳になった赤瀬川原平氏が「老人力」(筑摩書房)というエッセイ集およびその続編をだして評判を博した。ここでいう「老人力」とは、老人がぼけて物忘れがひどくなることを逆説的に表現した言葉である。
しかし、どうやらこれは、老人でなければ出せないパワーというように誤解されたらしい。そりゃ語感だけからすれば、誰でも誤解しますよね。
このエッセイ集は、中古カメラ片手に気ままな路上観察などを行い、その折々に出会ったこと、感じたことなどをとりとめもなく記したどうということのない本である。
ただ、赤瀬川氏は、ぼけていく自然過程をそのまま素直に受け入れることを提唱していた。無理をせずにできることをやればよいというメッセージが、その飄々とした文体とたたずまいのうちに巧まずしてにじみ出ていた。
五十九歳の私も、はや、この構えに体で共感してしまうところがある。」(P.21)
小浜逸郎さんのこの本も、老いについてとりとめもなく書いてある本だが、そのほとんどに共感してしまう。
私より一つ下の団塊世代だが、私より年寄り臭いところがある。まあ、わざと年寄りぶっているのだろうが。
「ぼけるが勝ち」と言って笑う人がいる。しかし、実際はボケに一番最初に気づくのは当の本人であるらしい。恐ろしいことだ。そして、本人は鬱になる。
しかし、若者の鬱病とちがうのは、時が解決してくれることだ。そのうちぼけていることも分からなくなるのだから。
「いい加減にしろ、全共闘オヤジ」というのもある。
二十代のころは「全共闘のあの騒ぎはいったい何だったんだろう」と考えることもあったが、結局、「何でもなかった」と言うしかないだろう。
最近では東大全共闘の山本義隆が「磁力と重力の発見」(みすず書房)という本を出している。当時は物理の大学院生だったが、あんな紛争がなければ立派な研究者になっていたのかもしれない。
まさか、山本義隆が全共闘運動にノスタルジーを感じているとも思えない。だが、いまでも全共闘がなにか意味ある運動だったと思うしかない、それを否定されれば人生の意味が吹き飛んでしまうような、いい歳をしたバカがいるのだろうとは思う。別に同情はしないが。
「趣味に生きても虚しい」という残酷なのもある。
この本ではなく、糸川英夫さんの本だったと思うが、アメリカの優秀な研究者が60歳でさっさと研究生活を引退し、趣味の絵を描くことに集中するために、老人だけが住む村に移り住み、毎日絵を描きにあちこち出かける生活を始めた。
久しぶりで訪ねてみると、描き上げた絵があちこちに散乱し、本人は元気なくぼっーとしていたらしい。
いくら絵を描いても、けなす人はもちろんいないが、褒めてくれるのは自分の奥さんだけ、張り合いがないのでしまいには絵を描くこともなくなり、一日中自宅でテレビを見ているだけの生活になってしまったらしい。
老後を生きるのも難しいものだと感じたものだった。
わたしには絵を描く趣味もないし、音楽も駄目だし、本を読むくらいしかない。目だけは何とか見えるままでいてほしいと願うばかりだ。
整理をしていたら、ある会社の「システム事業部の期待する技術者像について」という文書が出てきた。
この会社は、結局、社長が行方不明となって終わったのであるが、この文書の内容に関しては共感できるとことが大いにあるので紹介したい。
ただし、これは、よその会社の社員に求める人間像である。要求レベルは結構高い。
優秀な人を集めて、教育し、単価のいい仕事を取ろうとしたわけだ。
「見込みのある人を教育して、その人やその所属会社とともにメリットを分かち合おうと考えています。ですから、スキルのある、即戦力の人も歓迎しますが、可能性のある、教育しがいのある人を送り込んで下さい。」
ただし、ソフトウェア開発に携わる人向けなので、そのつもりでお読み下さい。
「私どもの求めている技術者像を表す表現を並べてみると以下のようになるかと思います。
(1)基本的に明るい人、協調性のある方
(2)報告、連絡、相談の大切さを知っていて、実践できる方
(3)知的な方向性のある方
時には英文の、時には専門用語の羅列の資料を結構な量、読んで仕事をするというケースはまれではありません。それに耐えられないと長続きしません。
(4)向上心のある方
年齢、ポジションなどにより、ここまでできていればよい、ここまでは求められる、というものが変化します。進歩のない人よりハングリー精神のある人を求めます。
(5)変化する技術動向を自分でもウォッチし、自分の方向性を考えられる方
この業界では、技術者は自分自身をどう育てていくかを考える必要があります。それがない人は困ります。
(6)出来る限り、必要な場面では、具体的な、言動レベルでものが考えられる方
たとえば、単に一生懸命やります、ではなく、1週間以内にOracleマスターシルバーを受けて合格します、準備状況は毎日報告します、というように言える人。
(7)トラブルから逃げない方
人間ですから、ミスやトラブルは色々あります。それから逃げない人を求めます。
(8)ごめんなさい、済みませんでした、が言える方
(9)上には上が居ることを理解している視野の広い、背伸びしすぎない方
ある人が有能でどんなにできても、大概、それより上の人は居ます。自分の長所、短所、性格等を素直に受け入れることのできる人が望ましいです。過去に虚勢を張って玉砕した人が何人か居ますが、後始末が大変で、時間も大いに無駄になりますので、そういう人は入れないように工夫をしてきているつもりです。」
最後に、求めない人間像というのもあった。念が入っている。
「最後に、こういう方はご遠慮下さい、というサンプルを挙げさせていただきます。
(1)新聞も雑誌も本も読まない人
(2)言われたとおりに仕事をやっていれば、スキルがついて、上級プログラマやSEになれると考えている人
(3)バイク、車、つり、バンドや劇団活動等を主体と考え、ソフトウェアの仕事はそのための手段と考えている人
(4)指示がないのに勝手に残業や徹夜をして翌日体調が悪いと言って休む人
(5)昼は一人で弁当を食べ、飲み会等には出ないで、できるだけ定時退社で自分のペースを通そうとする人。
(6)座っているだけでお金をもらおうという人
(7)アウトプットが出ない、または遅れているときに、一生懸命やったということだけを強調する人
(8)目録だけを尊重する人。例えば、Oracleの本なら8冊持っていますと言って、ほとんど読んでいない人
(9)効率や内容を考えずに生活残業をする人
(10)手を動かして忙しければ仕事をしていると考える人
(11)唯我独尊の人
(12)要求されたことを必要最低限の水準でクリアすれば自分の義務を果たしたと思う人
(13)茶髪、長髪、ピアス、マニキュアなどで自己主張をする人」
以上であるが、あえてコメントはつけないことにする。
あくまで、よその会社の社員に求める技術者像であることを、再度、お断りしておく。
山本夏彦さんの文章は以前にも引用したことがあるが、山本夏彦さんは「辛口のコラムニスト」と呼ばれていた。本人は「よせやい、カレーライスじゃあるまいし」と笑っていたそうだが。
雑誌「諸君!」に連載していた「笑わぬでもなし」で「無想庵物語」が始まって、山本夏彦さんが単なる「辛口のコラムニスト」ではなかったことを知った。
話は飛ぶが、わたしは若いころアナーキズムに興味があって、石川三四郎など日本人アナーキストを読んだことがある。
そのうち辻潤を読み始め、ついには辻潤著作集(オリオン出版社刊:全6巻、別巻1巻)まで買ってしまった。
辻潤の全集を持っている人間はそう多くはないだろうと思う。(ちょっと自慢)
ただ、辻潤はアナーキストとはいわず「ダダイスト」というのだそうだ。
大正12年、関東大震災のとき、大杉栄と伊藤野枝は憲兵隊の甘粕中尉に殺されたとされる。そのとき小学生くらいの親類の子どもも殺されたのだが、辻一(まこと)と間違えたという話である。
ちなみに「甘粕大尉」(角田房子著、中央公論社刊)によれば、甘粕大尉こと甘粕正彦はなかなかの人物で、その後、大東亜戦争のとき満州で活躍している。
Amazonにあった角田房子著「甘粕大尉」の書評を引用する。
「甘粕は大杉事件により、30過ぎで早々に軍人としてのキャリアを捨て、その後の20数年の軍外での人生、特に満州での約15年の暗躍が、甘粕の名を歴史に刻むことになる。
それにも関わらず、本書のタイトルは「甘粕正彦」ではなく「甘粕大尉」である。
それには、2点意義がある。
そのことが甘粕の評価を高め、同時に甘粕を近寄りがたい男にもした。
そして次に、皮肉なことに早々に軍人の道を外れた甘粕こそが、昭和期を通じて、陸軍の最も理想的な軍人の一人であったという事実。
強い愛国心と天皇への忠誠心、規律を遵守する強い意志、目的達成のために慣習に囚われない合理的思考、組織を統率するための強いリーダーシップと部下へ優しさや人情味、人脈作りと情報収集能力、どれをとっても並の軍人には及ばない実力を、甘粕は満州で発揮した。
本書は甘粕の裏面(諜報活動や阿片取引など)について詳しくは述べてはいないが、甘粕が表社会でも裏社会でも人望を得た背景にある複雑な人間的魅力を、著者は丹念に説明している。
同時に、表紙の写真が、澄み切った強い意思と冷酷さ、大いなる諦念が共存している甘粕の魅力を物語っている。」(9 人中、9人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。)
辻一(辻まこと、と書かれていることも多い)は、「山の声」「山からの絵本」「山で一泊」「すぎゆくアダモ」などの画文集で知られる。
辻潤の息子であることと、名前が同じ「まこと」なのでよく読んだ。
山本夏彦さんは、その辻一と一緒に、武林無想庵に連れられてパリにいたことがあるらしい。無想庵の娘イヴォンヌ(純粋の日本人)と関係があったのかなかったのかはわからない。
武林無想庵は帰国してみたら、友人山本露葉が死んでいたので、その忘れ形見夏彦をフランスに同行させたらしい。
それで、辻潤---辻一(まこと)---山本夏彦--武林無想庵の関係を知ることになった。
乱読していると、そのうち結びつくことがある。面白いものだ。
辻一の本は面白く読んだのだが、山本夏彦さんによると作品はあまりよくないという。
著者本人を知っていると素直に評価できないものだとも書いている。そうなのかも知れない。
「失語の国のオペラ指揮者」(ハロルド・クローアンズ著:早川書房刊)に、縦書きに関するところがあった。これも文化の話だ。
「言語中枢はつねに左半球にあるとは限らない。とくに左利きの場合は右にあるかもしれない。
だが、左利きでも同じ視野で読む。したがって、左利きの者が英語を読む場合、左視覚野から右半球の言語野へと交叉させることを覚えなければならないはずだ。
ヘブライ語ならその必要はない。こうしたことはすべて、無意識のうちに行われている。
(もちろん、視神経はいつも同じ働きをしている。半交叉によって右半分の像を左視覚野へ、左半分の像を右視覚野へ送る。そのつぎの仕事を覚えるのは脳の役目である)。
脳は自然なことをする。ただし、何が自然かは言語によって、書字システムによって異なる。
さらに同じ脳に取ってさえ、言語が違えば違う。英語を読む者の大半は、左視覚野で始まって左半球へと伝わる回路を見つけなければならない。
だが、ヘブライ語を読む場合には反対側で始まるし、もし右半球優位の者であれば、出発点も最終目的地も違ってくる。
日本語となるとまた、微妙だが現実的な解剖学的相違が現れてくる。
日本語は上から下へと、視野の下半分で読む。読字のためのスパンドレルはいっそう複雑な様相を呈する。
それぞれの視覚野の半分(左半球の半分は外界の右側を、右半球の半分は外界の左側を見ている)は溝と呼ばれる深い裂け目で分かれている。この裂け目は「鳥距溝」とわざわざ名づけられているほど重要なものだ。
外界の上半分の像はこの溝の下に、下半分は溝の上に入ってくる。英語を読むときには、ふつうはこの水平線の下側を使っている。ヘブライ語でも同じだ。
だから、二重焦点メガネの読書用の部分は下側に設定されている。水平方向に読む言語の文字はすべて、鳥距溝の上に伝わる。
日本語のような垂直方向に読む言語だけがべつである。」
(P.109~P.110)
わたしのメガネも「二重焦点メガネの読書用の部分は下側に設定されている」のだが、縦読みだからといって、左右に分けるわけにもいかないだろう。(笑)
脳梗塞で字が読めなくなった患者の話が出てくる。なにが書いてあるかわからないという意味らしい。
発話に問題はない。もちろん視覚に異常があるわけではない。
ところが点字を覚えたら、点字を読むことはできた。
さらに右から左へ書くヘブライ語も読むことができるようになった。
「それからイディッシュ語も勉強しています。おかげで、またひとつ文学の世界が開けますよ」(P.118)
著者も日本語のことがわかっているなら、日本語を学ぶように勧めてほしかった。